不登校の子、勉強のわからない子のためのプロ家庭教師です

困っている子のために

When one door is closed,many more is open. 「ひとつのドアが閉まっている時、もっとたくさんのドアが開いているんだよ」ボブ・マーリー
元不登校で共感力が強い家庭教師です。
家庭教師歴20年以上 大人の目線で見ない、世間の見方に流されません。 その子の道が必ずあります。

2019年06月

 不登校、学習障害とくくるのは抵抗を感じます。
 ひとりひとり、全く違います。
 それぞれのお子さんの様子をじっくり見て、その子に合う方法を見つけます。授業後にお母さんとたくさんおしゃべりして、いい勉強法を見つけることも多いです。
 子供たちは色んな人の目で、色んな角度で見てあげたいですね。私もその一人です。

「私たちは必死にがまんしないできた」清水眞砂子著書より

 出会いは楽しいですね。
 この場合は本との出会いです。

 教育に興味のある人の集まりの後の雑談で本の話、あの作家ならお勧めは〇〇、この作家なら△△…とかそんな話で盛り上がりました。その帰りがけ私がふとカバンに入れてたカニグズバーグの講演集を出して、この作家が「大好きなんですよ」と見せたら、「その翻訳者の随筆がいいですよ」と…意外なお返事が。小説、物語の翻訳ならとてつもなく読み込んで訳されている方のはず。カニグズバーグの翻訳者ならば…面白いかもしれない…と思いました。

 早速、随筆を二冊読みました。海外、日本を問わずいろんな作家さんをとりあげてありそこからまた興味がわくものが見つかりそうと、新たな作家さんの名前をメモし、読んでいたら、自分が最近凄いと思った「A3」の著者、森達也さんのことを誉めていました。

  嗜好が自分に合う…と思いつつ、三冊目を読み始めました。






 随筆集です。

 教師時代の経験など、若かりし頃の話も読みごたえがありましたが、中でも「私たちは必死にがまんしないできた」の章には心を射抜かれました。

 映画「鉄道員」を久しぶりに観て…そのストーリーは、事が起こって家庭が崩壊、夫も娘も家を出て行ったあと、妻がこうつぶやきます。

 「こうなったのはみんなが少しずつがまんしたからよ」

 筆者は以前この映画を観たときはこのセリフに気が付かなったけど、今は、はっとしたとお話がはじまります。


 筆者自身が結婚生活で真剣に守ってきたことのひとつに「がまんしないこと」があったと述懐します。(他は「わすれない」「はぐらかさない」)そして、このセリフにひかれたのは「がまんしない」ことの難しさと大切さがわかりかけたからだと述べています。

 「がまんしない」を「言い出したのは夫」で当時、筆者は単純にいいことと思い、賛成しました。それを聞いた結婚生活の先輩である「夫の友人たちはみんな反対」結婚は「一年ももたない」と言われたと後に聞かされたそうです。

 しかし二人は守り通しました。「夫はがまんしなかった。私もそれに応えた」「結婚して六年半たった今、」がまんしなかったから「こうしていられるのだ、と確認し合っている」そうです。

 さて、ここからが佳境です。

 「がまんしないことは」「私も必死」「夫も」。並大抵のことではなく「べそをかきながら懸命にがまんしないでいる」という他人からはおかしな光景もありましたと。「理解し合うとか、わかりあうとか、そんなことをこえて」いつでもどこでも、よく話すふたりとなり、それを見た喫茶店の人は、夫婦?恋人?と賭けをしたと。

「必死にがまんするのではなく、必死にがまんしなかったのである」

「そんな中で私は、がまんすることがどんなにエネルギーのいらない、らくなことかを知った。」

 目からウロコです。

 そうか、がまんする方が確かにラクです。
 人ともめないで済みます。その場を簡単に収められます。

 でもがまんした方の心に澱ががたまる…。私は我慢強いと言われるのですが…そんな生活の頃はお腹に腫瘍ができた…関係ないかな?!…。

 がまんしない方がラクだと思ってましたが、筆者の言う「がまんしない」ことはいかに大変か。でも、やりがいがありそう。それもお互いにがまんしない、させないからいいのですね。それを貫いたのもすごい。

 自分には難しいけど…

 でも、この随筆で「がまんしない」ことへのとらえ方が変わりました。

 筆者はがまんが「どんなに人と人との距離をひろげ、その関係を浅くしていくものであるかも」知ったと述べています。

 がまんしないから…
 自分の思いをことばにして相手に伝えなければならない。
 黙ってしまう方がラク。言っても仕方ないと思う時も。ここはがまんした方がラクと筆者も「つい思ってしまう」「そのほうが波風立たない」と。

 それでも「つらくてもがまんしないできた」と。
 「傷口に塩をすりこむようなこともなかったわけではない」
絶えず話をしている。「わかりあうために話すのかと言われたら…笑い出してしまう」そんなことをこえて、私たちはよく話す。「話すことはそのまま生きること」

 こうして自分たちの「解放区が生まれた」

 日々のくらしも、小さな具体的なことの連続。

 家事の分担という発想はなく、そのとき、できる方がやる。平等ということばには、頓着しない。料理をつくるのは「夫のほうが手早く上手だから」「夫」が圧倒的にすることになりました。でも「夫」が台所にいるのに、自分がテレビを観たり新聞を読んだりするのは抵抗があり、ついあやまってしまう。「そこにひそむ傲慢さ、思い違いに気づかせてくれたのは夫だった。」と。

「あなたがそんなことを言ったら、ぼくは四六時中すまないすまないと言い続けなければならないんだよ」と「夫」が言ったと。

 今も自分との小さな闘いの連続。「互いの世界」を「侵し、侵され、包み、包まれ、生きたまま心中すること、解放区を日々新たにしていく…」と結んでいます。

 がまんしないことの方が大変。でも心に澱はたまりません。
 
 自分の心に沁みついた、がまんが美徳の概念を引きはがしたくなりました。
 
 がまんしないともめる…
 もめごとをすべて悪とみなす社会は…息苦しく、がまんを強要します。
 自分はもめごとは苦手で怖気づくほうですが…がまんしない勇気を出したい…です。

 一概に真似できないかもしれませんが、このような発想を知るだけでも違うと思います。

 引用しながら、省いた部分も良い文が多く、短い随筆なので是非、本書を読んで頂ければと思います。当然、そのほうが筆者の言う「がまんしない」ことの意味がきちんと伝わると思います。
 
 他に家族というものについての随筆もとてもいいです。この方のはステレオタイプでないのが好きです。

 他に読んだ随筆も挙げておきます。









 
私と一緒に勉強したい方は

不登校当事者の講演 「居場所がほしい」の著者

 5月中旬に 藤沢のNpo法人自由創造ラボたんぽぽ主催の不登校当事者の講演に行きました。

 当事者側と親側の気持ちを交互に述べる形式でした。

 登壇者、当事者側は不登校について下記の本を出版されている方、親側は娘さんが現在不登校で、起立性調節障害の啓蒙活動もされている方でした。

この本を出版されています。


 当日は不覚にも筆記用具を忘れてしまい…携帯でメモをとりました。短めになりますが…その方がいいかもしれないと思い、書くことにしました。(浅見さんのインタビュー記事のリンクを後ろに貼りました。お時間があるときに是非お読みください。)

まず当事者側から、
 いろんな、子どもたちに話を聞くと
 こんな声が聞こえました。
 「いつも頑張っていた。」
 「常に頑張っていないとだめ。」そして…苦しくなる。
 「私の話を聴いて欲しい。」でも先生は忙しそうだ。
  また、先生に「私」を見るのではなく「クラス」としてひとまとめにされるのが嫌だと。

 なぜ不登校になったのかと聞かれて…
 本人も理由はわからない。学校へ行かないことには罪悪感があります。
 理由をしつこく聞かれ、無理矢理、作って答えました。すると、周囲はその解決のために動き出してしまうことに。そこで、「自分は親を苦しめている」ともっと罪悪感に苦しむようになりました。

 不登校の原因(きっかけ)は
 自分はおとなしいタイプでした。クラスにやんちゃな(不良)グループがおり、いじめるターゲットをよく替えるコワイ存在でした。ある日、彼らがひどい悪ふざけをしました。それを知った担任教師が誰がしたのか「手をあげろ」と言ったら、そのグループが手を挙げ、後で別室へ来るようにと言われました。ところが、その不良たちは何もしていない自分も強引に同行させました。その別室で教師に、(後の仕返しが怖くて何も言えない)自分をやっていないこともしたことにされ、「さっき手を挙げなかった」と卑怯者呼ばわりをされました。それがきっかけでした。

 不登校の子に「かけて欲しい言葉は?」とよく聞かれますが…言葉というよりは「優しい気持ち」を感じたいです。

親側
 不登校の親の集まりでは子供に笑顔で接するようにとのアドバイスを受けました。笑顔になれません。でも、口角をあげるとセロトニンは出ます(だから意味がある)。それでも不登校にしたのは「私」と自責の念に苛まれました。子供には見せないように、辛い時は車の中や風呂場で大きな声で泣きました。(これは必要でした)

当事者側
 元気になったきっかけは…
 適応支援センターのカウンセラーとの出会いです。
 通常、周囲は学校へ「行く」そぶりを見せると喜び、「行けない」と怒る。「僕」を見ていない。学校へ行くか行かないかしか見ないと感じました。
 それに対してそのカウンセラーは僕の好きなことを聞いてくれました。好きな野球の話をしました。好きな球団についての話で盛り上がりました。初めて「僕」を見てくれました。
 学校へ行かないのは一番いけないことと思っていました。
 また、野球部の友達からのメールもありました。一人でも味方がいたことが一番大きいです。学校は傷つく場所ではなくなりました。 

親側 
 親が明るくなるのと娘が動き出したのがほぼ同時期でした。フリースクールへ。そこで娘の好きな声優の授業がありました。好きなことは這ってでも行きます。(今も)学校へは行ってません。でも学校に行ったら解決ではないと思います。根拠のない?(笑)…期待かもしれませんが(笑)

当時者側
 また、不登校になりました。ゴールは学校なのか?辛くても学校に戻るのは、ぶり返します。親と顔を合わせただけで腹が立ちました。
 やがて、親がカフェに行ったり、好きな福山雅治のコンサートに行くようになり、親が明るくなりました。(それが嬉しかった)。子供のせいで親が苦しむ自責の念から解放されました。

・・・・残念ながらメモはここまでです。

当事者…浅見さんのインタビュー記事のリンクです。お話が重複してますが、ずっと詳しく、良い記事です。お時間があれば是非ご覧ください。
不登校の子の居場所についてリポートする連載で、そのひとつです。





私と一緒に勉強したい方は

私が不登校だった頃 高校生以降~

 中学までを書いてから4年たってました。
 頑張ろうと立ち上がっても続かない…
 そんな子がいると聞いて、ああ私もそうだった。
 いやいや、
 私のは、かなりひどく逡巡しまくり倒しました…。

 今は、何とかしのげるようになった…

 続きです。

 中学を卒業し、私立高校に進学しました。
 出席日数が少なくても受け入れてくれ、
 なかなか雰囲気がよい学校でした。
 しかし、遠方なので、六時台に起き、七時には家を出なくてはなりません。
 やる気さえあればできる子と思われ、思っていたのですが…

 今思うと、起立性調節障害の傾向がありました。
 もしそうなら、本当に的外れなことをしました。

         | 午前中が弱い人は起立性調節障害の可能性があります
         | 起立性調節障害についてはこちらをご覧ください
         |           ↓
         |     起立性調節障害と不登校  

 朝は食欲がないので牛乳だけ飲んで家を飛び出しました。

 新たな気持ちで、高校では積極的に行動しました。
 ただ、続きません。早起きしなくては。前の日から緊張し…夜眠れない…どうしよう。行ったり、行かなかったり、行かなかったり…。とうとう行けなくなり…

 そんな私を見かねてとうとう母が言いました。
  「お父さんが『もういいよ。』って言ってたよ。」

 学校をやめる時は父と行きました。担任の先生が止めてくれました。まあ、登校すればやる気満々でしたから、納得できなかったと思います。
 そこの校長先生が父に行った言葉が胸に響きました。

     「学校でなくても学びはできます」
   
 後で友達が、「高校は冷たい。普通は止めないよ。」と言ったのでいい学校だったようです。

 さて、ではどうすればいのか。てっとり早いのは語学でした。外語学校に入りました。何もしないのは許されません。恰好がつき…とりあえず…です。始めはいいものの続きません。

 16歳。未来があると周囲は言いますが。
 それが何だと言うのでしょう。
 何の励ましにもなりませんでした。
 今は、それを言う側の年齢になりましたが、言わないです(笑)

 当事者には若さに何の価値も見えません。


 何をしても続きません。知人の紹介でアルバイトに行ったこともありますが、仕事内容は好きでしたが、小さな労働争議に巻き込まれてしまい、それを越えて頑張るような執着もなくフェイドアウト。そこの経営者は、私がまだ16歳だったことを若いと、とてももてはやしました。私は若いのは得だなと思う反面しらけてましたっけ。

 のこりの十代は何をしていたのか…引きこもりに近かった。ただ、中学の不登校学級で知り合った友達と京都や日光に旅行をした覚えがあります。
 
 その子から大検を教えてもらいました。先に述べた高校も彼女から教えてもらったことが、ヒントになり見つけました。
         |大検(現在は「高校認定試験」といいます。)
         |こちらで触れています 
         |        ↓
       |高校へ行かず大学進学する方法1  制度について
         |高校へ行かず大学進学する方法2 私の経験


 そして大検を受けました。動くことに臆病になっていた私が敵前逃亡をしないで済んだのは、
 二つ上の兄が励ましてくれたことが大きかったと思います。試験の前日、東京の下宿先から帰ってきて、「勉強しよう」と、声をかけてくれたからだと思います。当時の大検は易しかったので半分以上ラクに科目をとれました。そのあと、通信制高校に入り地理と生物の単位を取り、二度目の大検受験と合わせて資格を取りました。

 ただ、大学受験と大検のレベルの差は大きく、受験は簡単にいきませんでした。これ以上浪人したくない、どこかに決めたいと思ったとき相談した人から「私が卒業した学校が良かったけど」と勧められました。試験科目は小論文と面接でした。合格しました。

 その学校は、不思議な縁がありました。講師の先生に早逝した伯父の同僚の名前がありました。その伯父は誰もが尊敬する人でした。すぐに授業をとりました。先生も伯父を覚えていました。また、出席簿順で並んでできた友達もお父さんが伯父のことを知ってました。

 さらに先生の中にもう一人…父が法事で、久しぶりに会った親戚に「うちの子が勤めている学校に娘さんがいますね…」と声をかけられました。私はその先生の授業を受講してたのですが、良い学生ではなく、すでに卒業間近…(笑)まあ、予め知ってたら私はヘンに気を遣うタイプなので…その先生の授業はとらなかったかもしれません。

 「行動を起こす」とこんな嘘のようなことが三つも重なることもある…。
 
 それに不思議なことに、少しも学校をやめたいと思いませんでした。くたびれた時は学校に近い祖母のところに泊めてもらえたのも助けになりました。

 ところが、学校を卒業した後…どうしたらよいか分からなくなりました。

 何のビジョンもありません。今思うと大事な視点が欠けてました。
 学校を卒業したから不登校ではなくなった…でもそんなのが目標では私みたいになってしまう。
 あんなに悩んで苦しんだ「学校」へ行く必要がなくなったら…拍子抜けしました。
 まだ、その悩みがあった方がマシとふと頭をよぎり…ヘンですね。

 学校、学校とこだわってもダメ、その先があります。当たり前ですが。

 学校なんて手段にすぎません。
 根本でも最重要事項でもなんでもありません。

 悩みの根源に学校を据えてた私は浅薄でした。

 そして、外に出るのでもなく、「引きこもり」ですね。

 習い事をしても続かずやめるの繰り返し、思い出せないくらい色んなことをしました。母親に「今度こそやめないわよね」と強く念を押され続けました。追い詰められ「やる」と言い返すのですが。嘘をつくつもりは無いけど何かに飛びつかないと収拾がつかない。

 病院にも行きました。
 欲しいのは眠れない夜が辛いので睡眠薬だけ。
 外へ出るのが怖い。人に会うのが怖い。
 食欲も無くなり、痩せました。
 
 家族にとって私は困る存在です。
 
 家族に、私を上回る「困った人」…姉がいましたので、私は霞んでました。風当たりは多少やわらいでいたのですが…。
 その姉が、嫁ぐと、母の全エネルギーが私に向かってきました。母の頭の中は120%、否200%私。私の行動にピタっと読んだように母が前に現れることが多く、コワかったです。でも私が悪いのですから…抵抗できません。

 何も食べられなくなりました。少しでも栄養を摂ろうと牛乳を飲みましたが、もどしました。それを母にも伝えたのですが、ホットミルク入りのマグカップを何度も持ってきます。とろんとした目で。(母もおかしかったのですね…でも私がそう訴えても誰も取合いません。相当おかしくなってからやっと父が気づいたのは半年以上後でした。)

 体重は31キロに落ち…。
 私は初めて切れ、家族たちを罵りました。「こんなに辛いのに、どうして私を頼るんだと」

 「私を頼る」とは…話のつじつまが合わないと思いますが…
 家族には強力な先述した「困った人」姉、母の姉への愚痴の受け皿が私でした。小さいころからずっと。それ以外にも子供として聞きたくないことも母は何でもしゃべりました。それらは他の家族にも話せず自分の中に収めました。私は口が堅い、そうほめる兄弟もいましたから、言わないことに誇りもありました。

 普段おとなしい私が切れたので、私の方がおかしいとされ抑え込まれました。結局、あとで「迷惑をかけた」と私が謝まることに。そのとき家族は満足そうな顔をしました。切れた理由を家族は今でも分からないと思います。説明する気はとうに失せました。無駄ですから。
   
 後年、心療内科の先生に切れた時の話をしたら「(悪くなくても謝ったのは)丸く収めるためにはそうするしかなかったですね…」と言われました。他人の方がわかってくれると思いました。逆に明らかに家族が悪くても謝られた覚えがほとんどありません(笑)。

 それを話した従姉から「私は自分が悪くなければ絶対に謝らない」と言われて、びっくりしました。悪くなければ謝らなくていいんだ…私の中には無い思考です。
 
 
 そして、数年後両親はそれぞれ他界しましたが、
 自分は「価値がない」との思いは相変わらず強固でした。
 道路わきを歩いているとすごい勢いで通る、トラックに自分が吸い込まれるような錯覚が起きました。最近、知ったのですが、物理的に本当に「吸い込まれる」そうです(笑)

 私の転機は…

 近所の方から、お子さんのお勉強を頼まれたことでした。私の様子を知っている方ですから勇気がありますね…。その方から、家庭教師を頼むことにしたが、「あなたなら良いとうちの子からお許しがでたのよ」と言われました。次に、別なお宅からも声がかかり、やがて、塾で働くようになりました。生活費の半分を出せるようになりました。

 そして、紆余曲折を経、今に至ります。

 このように、私が適職に出会ったのはかなり遅いです。
 
 出会えると夢にも思ってませんでした。
 自分が勉強を教える側になるとは…

 先のことは誰にもわかりません。

その後、
 年齢を重ね憑き物がとれたのか、強固だった自殺願望がなくなりました。
 気が付いたら「無くなってた」…という感じです。

 こうしたらいいとか、ああしたらいいとか、具体的なことを言えなくてごめんなさい。
 

 あるお母さんから「先生は(不登校を)乗り越えて、立派にやっておられる」と言われたときは「…?…」と返事できませんでした。立派からほど遠く、「乗り越えた」感はまったくありません。(笑)

 私の経験は変わっていて……もっと、いろいろあるのですが、論旨がズレそうなことは割愛しました。 

 何か事件があるたびに「助けを求めれば…」との論評がありますが、
その勇気も出すまで大変です。

 求めても冷たい対応をされて打ちひしがれることも…私も傷ついたことが。

 それでも、誰もが何かに出会える可能性はあると思い直してください。

 傷ついたら、「冬眠」してもいいと思います。
 友だちの中に、ある日突然「会えない」と葉書がきて、交流が途絶える人がいます。何年か後にコンタクトをとって一緒に出掛け交流再開。ところが、数年後、今度は「会えない」とメールがきました。そんなときはそっとしておきます。このような「冬眠」が必要な人もいます。

 今も、私は「不安」の中にいます。
 でも、その「不安」が私の生きている実感です。
 むしろ、うまく行くと、逆に「何かヘン」と思います。貧乏性ですね(笑)

 どうせなら、「人知れず咲く、野の花のようになりたい」…と言ったら、そばで聞いてた友人に軽く笑われました。無理もないか…(笑)
 どこかで聞いたフレーズだったからですね。目立たなくて静かにいたい。

 別な年下の友達に「いつまで生きたい?」と聞かれました。
 「死ぬまで」と即答しました。

 そんなもんです。深く考えても解決しない。

 今でも夜眠れない時もあります。そんなときは眠らない。
 十代の頃、不眠は深刻でした。
 今はそれほどではない。
 長生きしたいと思いませんが、生きてることも悪くありません。
    
 人間、死ぬときは死ぬ。それまで生きましょう。
 いずれ皆死ぬのですから…大丈夫(笑)
 
 今のことに悲観的になったら、無理に歯向かわずやりすごしましょう。

 ※この文章もうちょっと何とかならないものかと何度も読み返すのですが…
  こんな締めになりました。すみません。


         中学生以前についてはこちら↓
           私が不登校だった頃 中学生まで 




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