上橋菜穂子さんの物語が好きです。その物語の多くには、本当の悪人は出てこず、お互いによかれと思って行動していることが通じない、異文化の軋轢が描かれてます。
 上橋さんは文化人類学者でもあるのですが、本書「隣のアボリジニ」はオーストラリアへフィールドワークに行った時の話をまとめたものです。


 
 アボリジニとは本書によれば、英語の原住民という単語から派生した言語だそうです。広大なオーストラリア大陸に住んでいた400以上の全く通じない言葉(方言を入れると600以上)を話す集団に分かれていたと。それを「イギリス人が日本人と韓国人は見分けがつかないから同じ民族だと規定してしまったと同じよう」に一括りにしました。
 この本は筆者はどのような思いで書いたのかで始まります。
 あるオーストラリアの白人の運転手さんの半ばジョーク、半ば本気といった表情で言ったアボリジニへの辛辣な評価から、筆者は「『人種偏見は悪だ』とすっきり言い切る思想を足場として考えるより、ジョークを紛らせながら出す本音、『ひどいことを言う奴だな』と、それに腹を立てながらも、どこかで怒りきれないものを感じるというような反応に現れる、複雑で、くるくる変化する意識の方に、どうしても心を惹かれてしまい」、だから、「この本は、『アボリジニは、こんなひどい事をされてきたのだ。現在も、こんなひどい仕打ちを受けているのだ』というテーマでは書くまい」、「その視点だけに囚われていては見えないことが多すぎるから」だと述べています。そして、そのような思いに至るまでは「ずいぶん時間がかかった」と「自戒をこめて」と筆者は断っています。

 さて、国際化とはなんでしょうか。簡単に言えば、異なる国の人々と共存できることだと思います。日本も国際化と言われ始めてから久しいです。しかし、ネットニュースなどでも差別の問題は散見され、ときにはテレビで大きく取り上げられます。そこで差別は「間違っている」と他人事なら簡単に言えます。しかし、実際に接したら自分の不寛容さがしゃしゃりでてくるのではないかとも思います。

 身近なことですが、欧米人にとって食べ物をすするのはマナー違反です。本書ではカルチャーショックの例として挙げていたのですが、日本人の立ち食い蕎麦屋で蕎麦をズルズルすするのを見たオーストラリアの人が「鳥肌が立つほどの嫌悪を感じた」とありました。こちらの想像以上の反応です。ならば、もっと奥にある、異民族の生き方の規範はたやすく判別できません。しかし、生活の節々には現れます。それが日常なら違和感の連続でしょう。

 異文化と暮らすことについて筆者は、
 「ひとつの町で、異なる歴史と文化を背景にもつ『異民族』が一緒に暮らすというのは、決してたやすいことでは」なく、「きれいな思想でかたづくことでもない」と。でも「もっとも『きれいな思想』を信じる心がなくなったら、それはそれで恐ろしいこと」とも断っています。

 オーストラリアはアボリジニを隔離する政策をずっととってましたが、
「次第に異文化の論理があることに気づき、自民族の利益を守ろうとする実利的な意識と、二つの文化のどちらも尊重しようという理想の間を揺れ動いている姿」に変化します。「この本で描いたことが過度に一般化されて理解されてしまうことを防ぐために」個々の出会った人との具体的な出来事、彼らを理解していく過程をきちんと語るようにしたと。著者のインタビューに進んで話してくれる人、話すと言って招かれたのに一切言わない人、始めは拒んだが、時間をかけて信頼を得てからやっと話してくれた人など。さまざまなエピソードが生き生きと描かれます。読む方に考える材料を与え、ゆだねてくれます。声高に「差別はいけない」というよりも、心にしみます。
 
 終章に 「本人たちにさえ見えない原因は、他者には、もっと見えません。そして、人は、問題がはっきりわかれば解決しようと努力するけれど、問題自体がよく見えないと、とても不安になり、なんとか型にはめて理解しようとする傾向があるのです。」
 
 …至言です。



 その傾向は、理解したような錯覚をおこしてしまう、そんな危惧を自分にも感じました。

(余談ですが…このサイトのテーマのひとつ、不登校の子も本人に見えない原因の中にいます。それに対処する周囲の傾向にもあてはまるのではと、ふと思いました。)

 理解しようとすることは必要です。さらに、理解したと思う結果よりも、常に理解しようとする姿勢自体が大切です。 そこに真摯な姿勢があると思います。これは異文化の理解のみならず、人を理解するのにも通じることです。

 

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