ある討論会に参加した。

通常は接点のない職種の方たちの話を聞ける貴重な機会だ。
オンラインで実施され、小グループに分かれ
各自、簡単な自己紹介をして始まる。

私は不登校の子の家庭教師と自己紹介。

よって、
不登校の話題も振っていただくが…

(ここからは、批判ではありません。念のためお断りします)

不登校児童を「まともになる」「まともにするには」と
「まとも」のやりとりが他のふた方の間で始まり、
私にも
「まともにするにはどうしてますか」とふられて、
私は、子供を「まともにする気はありません」と応え…
命に関わるつらさを不登校の自殺願望など触れたが…

その後も、ふた方の「まともにする」談議が続き、
(私の教え子と違って)自分のところへは「末期症状」の人がくると…
義務教育がない国からの移住者に学校へ行くようにする対応に苦心…という話題へうつった。
大変な現場を熟知をされてる方だと察するものの…。

終了後、どっと疲れ、寝込んだ(苦笑)私の弱いこと(笑)

後日、海外在住の友達にその話をしてるうちに、
気づいた…
「不登校の子はまともです。」
これだけでよかったのかも。

厳密に言うと私も「まともじゃない」評価にひきずられている。
ただ、「それの何が悪いのか」という感覚でいると気づいた。
まあ、この論法は学校信仰の中では通じにくいかも。

以前、
生活保護相談の方が
自分は、相談者に他の担当者のように事務的対応ができない。
いずれ壊れるかも…とサラッと言われたのを思い出した。


事務的対応をされると悲しいが、精神的自己防御の一種かもしれない。
まして
当事者がその場にいなければ言葉に気を遣う必要もない。

…まあその場にいた私も当事者だったのだけど…
身内からもまともじゃない扱いをされたことがある。
身内以外の人が不登校に対して使うのをじかに聞いたのは…初めてかも(;^_^A。

ところで、

知り合ったばかりの人に
(不登校の話ではないが、)
悩んでいることを一生懸命話したら、途中で
「わかる、わかる」と軽くあいづちをされ、
話す気自体が失せたことがある。

環境や育ち等が違えば理解できないことがあってもやむを得ない。

理解できないなら「分からない」で、いい。
その代わりに謙虚になる。

「分かろう」とする姿勢だけでいい。

ところで、
不登校を「分かる」のは困難だ。

学校信仰があまりにも強力で、抜け出せない。

当事者、子供自身も受け入れられない。
相談した人に「お子さんをまともにしましょう」と言われたら、
その言葉に消化不良をおこしながら、「そうですね」と言うだろう。

不登校という言葉自体、学校信仰の産物かもしれない。

蓑田雅之先生のHP「おはなしワクチン」に
「不登校ということばがなくなる日をめざして…」とあるが、
そこも見据えてのことかと、やっと思い至った。

最後に
マザー・テレサの言葉に「愛の反対は憎しみではなく、無関心」とある。

討論で話題にしていただいたのは有難いと思う。
無関心が一番コワい






私と一緒に勉強したい方は…