出会いは楽しいですね。
この場合は本との出会いです。
教育に興味のある人の集まりの後の雑談で本の話、あの作家ならお勧めは〇〇、この作家なら△△…とかそんな話で盛り上がりました。その帰りがけ私がふとカバンに入れてたカニグズバーグの講演集を出して、この作家が「大好きなんですよ」と見せたら、「その翻訳者の随筆がいいですよ」と…意外なお返事が。小説、物語の翻訳ならとてつもなく読み込んで訳されている方のはず。カニグズバーグの翻訳者ならば…面白いかもしれない…と思いました。
早速、随筆を二冊読みました。海外、日本を問わずいろんな作家さんをとりあげてありそこからまた興味がわくものが見つかりそうと、新たな作家さんの名前をメモし、読んでいたら、自分が最近凄いと思った「A3」の著者、森達也さんのことを誉めていました。
嗜好が自分に合う…と思いつつ、三冊目を読み始めました。
随筆集です。
教師時代の経験など、若かりし頃の話も読みごたえがありましたが、中でも「私たちは必死にがまんしないできた」の章には心を射抜かれました。
映画「鉄道員」を久しぶりに観て…そのストーリーは、事が起こって家庭が崩壊、夫も娘も家を出て行ったあと、妻がこうつぶやきます。
「こうなったのはみんなが少しずつがまんしたからよ」
筆者は以前この映画を観たときはこのセリフに気が付かなったけど、今は、はっとしたとお話がはじまります。
筆者自身が結婚生活で真剣に守ってきたことのひとつに「がまんしないこと」があったと述懐します。(他は「わすれない」「はぐらかさない」)そして、このセリフにひかれたのは「がまんしない」ことの難しさと大切さがわかりかけたからだと述べています。
「がまんしない」を「言い出したのは夫」で当時、筆者は単純にいいことと思い、賛成しました。それを聞いた結婚生活の先輩である「夫の友人たちはみんな反対」結婚は「一年ももたない」と言われたと後に聞かされたそうです。
しかし二人は守り通しました。「夫はがまんしなかった。私もそれに応えた」「結婚して六年半たった今、」がまんしなかったから「こうしていられるのだ、と確認し合っている」そうです。
さて、ここからが佳境です。
「がまんしないことは」「私も必死」「夫も」。並大抵のことではなく「べそをかきながら懸命にがまんしないでいる」という他人からはおかしな光景もありましたと。「理解し合うとか、わかりあうとか、そんなことをこえて」いつでもどこでも、よく話すふたりとなり、それを見た喫茶店の人は、夫婦?恋人?と賭けをしたと。
「必死にがまんするのではなく、必死にがまんしなかったのである」
「そんな中で私は、がまんすることがどんなにエネルギーのいらない、らくなことかを知った。」
目からウロコです。
そうか、がまんする方が確かにラクです。
人ともめないで済みます。その場を簡単に収められます。
でもがまんした方の心に澱ががたまる…。私は我慢強いと言われるのですが…そんな生活の頃はお腹に腫瘍ができた…関係ないかな?!…。
がまんしない方がラクだと思ってましたが、筆者の言う「がまんしない」ことはいかに大変か。でも、やりがいがありそう。それもお互いにがまんしない、させないからいいのですね。それを貫いたのもすごい。
自分には難しいけど…
でも、この随筆で「がまんしない」ことへのとらえ方が変わりました。
筆者はがまんが「どんなに人と人との距離をひろげ、その関係を浅くしていくものであるかも」知ったと述べています。
がまんしないから…
自分の思いをことばにして相手に伝えなければならない。
黙ってしまう方がラク。言っても仕方ないと思う時も。ここはがまんした方がラクと筆者も「つい思ってしまう」「そのほうが波風立たない」と。
それでも「つらくてもがまんしないできた」と。
「傷口に塩をすりこむようなこともなかったわけではない」
絶えず話をしている。「わかりあうために話すのかと言われたら…笑い出してしまう」そんなことをこえて、私たちはよく話す。「話すことはそのまま生きること」
こうして自分たちの「解放区が生まれた」
日々のくらしも、小さな具体的なことの連続。
家事の分担という発想はなく、そのとき、できる方がやる。平等ということばには、頓着しない。料理をつくるのは「夫のほうが手早く上手だから」「夫」が圧倒的にすることになりました。でも「夫」が台所にいるのに、自分がテレビを観たり新聞を読んだりするのは抵抗があり、ついあやまってしまう。「そこにひそむ傲慢さ、思い違いに気づかせてくれたのは夫だった。」と。
「あなたがそんなことを言ったら、ぼくは四六時中すまないすまないと言い続けなければならないんだよ」と「夫」が言ったと。
今も自分との小さな闘いの連続。「互いの世界」を「侵し、侵され、包み、包まれ、生きたまま心中すること、解放区を日々新たにしていく…」と結んでいます。
がまんしないことの方が大変。でも心に澱はたまりません。
自分の心に沁みついた、がまんが美徳の概念を引きはがしたくなりました。
がまんしないともめる…
もめごとをすべて悪とみなす社会は…息苦しく、がまんを強要します。
自分はもめごとは苦手で怖気づくほうですが…がまんしない勇気を出したい…です。
一概に真似できないかもしれませんが、このような発想を知るだけでも違うと思います。
引用しながら、省いた部分も良い文が多く、短い随筆なので是非、本書を読んで頂ければと思います。当然、そのほうが筆者の言う「がまんしない」ことの意味がきちんと伝わると思います。
他に家族というものについての随筆もとてもいいです。この方のはステレオタイプでないのが好きです。
他に読んだ随筆も挙げておきます。
私と一緒に勉強したい方は
この場合は本との出会いです。
教育に興味のある人の集まりの後の雑談で本の話、あの作家ならお勧めは〇〇、この作家なら△△…とかそんな話で盛り上がりました。その帰りがけ私がふとカバンに入れてたカニグズバーグの講演集を出して、この作家が「大好きなんですよ」と見せたら、「その翻訳者の随筆がいいですよ」と…意外なお返事が。小説、物語の翻訳ならとてつもなく読み込んで訳されている方のはず。カニグズバーグの翻訳者ならば…面白いかもしれない…と思いました。
早速、随筆を二冊読みました。海外、日本を問わずいろんな作家さんをとりあげてありそこからまた興味がわくものが見つかりそうと、新たな作家さんの名前をメモし、読んでいたら、自分が最近凄いと思った「A3」の著者、森達也さんのことを誉めていました。
嗜好が自分に合う…と思いつつ、三冊目を読み始めました。
随筆集です。
教師時代の経験など、若かりし頃の話も読みごたえがありましたが、中でも「私たちは必死にがまんしないできた」の章には心を射抜かれました。
映画「鉄道員」を久しぶりに観て…そのストーリーは、事が起こって家庭が崩壊、夫も娘も家を出て行ったあと、妻がこうつぶやきます。
「こうなったのはみんなが少しずつがまんしたからよ」
筆者は以前この映画を観たときはこのセリフに気が付かなったけど、今は、はっとしたとお話がはじまります。
筆者自身が結婚生活で真剣に守ってきたことのひとつに「がまんしないこと」があったと述懐します。(他は「わすれない」「はぐらかさない」)そして、このセリフにひかれたのは「がまんしない」ことの難しさと大切さがわかりかけたからだと述べています。
「がまんしない」を「言い出したのは夫」で当時、筆者は単純にいいことと思い、賛成しました。それを聞いた結婚生活の先輩である「夫の友人たちはみんな反対」結婚は「一年ももたない」と言われたと後に聞かされたそうです。
しかし二人は守り通しました。「夫はがまんしなかった。私もそれに応えた」「結婚して六年半たった今、」がまんしなかったから「こうしていられるのだ、と確認し合っている」そうです。
さて、ここからが佳境です。
「がまんしないことは」「私も必死」「夫も」。並大抵のことではなく「べそをかきながら懸命にがまんしないでいる」という他人からはおかしな光景もありましたと。「理解し合うとか、わかりあうとか、そんなことをこえて」いつでもどこでも、よく話すふたりとなり、それを見た喫茶店の人は、夫婦?恋人?と賭けをしたと。
「必死にがまんするのではなく、必死にがまんしなかったのである」
「そんな中で私は、がまんすることがどんなにエネルギーのいらない、らくなことかを知った。」
目からウロコです。
そうか、がまんする方が確かにラクです。
人ともめないで済みます。その場を簡単に収められます。
でもがまんした方の心に澱ががたまる…。私は我慢強いと言われるのですが…そんな生活の頃はお腹に腫瘍ができた…関係ないかな?!…。
がまんしない方がラクだと思ってましたが、筆者の言う「がまんしない」ことはいかに大変か。でも、やりがいがありそう。それもお互いにがまんしない、させないからいいのですね。それを貫いたのもすごい。
自分には難しいけど…
でも、この随筆で「がまんしない」ことへのとらえ方が変わりました。
筆者はがまんが「どんなに人と人との距離をひろげ、その関係を浅くしていくものであるかも」知ったと述べています。
がまんしないから…
自分の思いをことばにして相手に伝えなければならない。
黙ってしまう方がラク。言っても仕方ないと思う時も。ここはがまんした方がラクと筆者も「つい思ってしまう」「そのほうが波風立たない」と。
それでも「つらくてもがまんしないできた」と。
「傷口に塩をすりこむようなこともなかったわけではない」
絶えず話をしている。「わかりあうために話すのかと言われたら…笑い出してしまう」そんなことをこえて、私たちはよく話す。「話すことはそのまま生きること」
こうして自分たちの「解放区が生まれた」
日々のくらしも、小さな具体的なことの連続。
家事の分担という発想はなく、そのとき、できる方がやる。平等ということばには、頓着しない。料理をつくるのは「夫のほうが手早く上手だから」「夫」が圧倒的にすることになりました。でも「夫」が台所にいるのに、自分がテレビを観たり新聞を読んだりするのは抵抗があり、ついあやまってしまう。「そこにひそむ傲慢さ、思い違いに気づかせてくれたのは夫だった。」と。
「あなたがそんなことを言ったら、ぼくは四六時中すまないすまないと言い続けなければならないんだよ」と「夫」が言ったと。
今も自分との小さな闘いの連続。「互いの世界」を「侵し、侵され、包み、包まれ、生きたまま心中すること、解放区を日々新たにしていく…」と結んでいます。
がまんしないことの方が大変。でも心に澱はたまりません。
自分の心に沁みついた、がまんが美徳の概念を引きはがしたくなりました。
がまんしないともめる…
もめごとをすべて悪とみなす社会は…息苦しく、がまんを強要します。
自分はもめごとは苦手で怖気づくほうですが…がまんしない勇気を出したい…です。
一概に真似できないかもしれませんが、このような発想を知るだけでも違うと思います。
引用しながら、省いた部分も良い文が多く、短い随筆なので是非、本書を読んで頂ければと思います。当然、そのほうが筆者の言う「がまんしない」ことの意味がきちんと伝わると思います。
他に家族というものについての随筆もとてもいいです。この方のはステレオタイプでないのが好きです。
他に読んだ随筆も挙げておきます。
私と一緒に勉強したい方は